「永遠の0」とポピュリズム的手法

*うろ覚えに基づく部分も多いので、話半分で。

 

中学生の時に小説「永遠の0」を読んだ。素直に感動した記憶がある。やっぱり戦争はダメだなぁ、と。

 

ただ文学的な作品ではなく、泣ける大衆小説だと思って読んでいたので、特に作者の百田さんについて調べることもなかった。時間という試練に耐えた作品だけを読むようにしていたのだ。中高時代(と大学1年)は、今よりもイキっていた。

 

さて大学生になってみると、ツイッターで百田さんのネトウヨ的な発言を目にするようになった。極め付けは、性犯罪の被害者の方を批判していたことだ。あの時の感動を返してくれ…と思った。

 

そこでふと件の「永遠の0」を思い出した。「やっぱり戦争はダメだなぁ」というあの時の感想は、果たして正確だったのか。

 

もう一度読み直そうかと家の中を探したが、どうやら処分してしまったらしく、無い。

 

かといってもう一度買い直したり、図書館で借りるほどの熱意は無いので、記憶に頼りつつ、書評を調べていくことにした。

 

 

なるほど、賛否両論ある。「百田の思想は受け入れられないけど、この作品を戦争賛美と批判するのはおかしい」とか、「映画版は右傾っぽいけど、小説版は戦争批判がされている」とか。あるいは「戦争を始めたことそのものへの批判はない」から、それでもこの作品では反戦とは言えないのだ、という意見もあった。

 

あと、あとがき?とか本文以外に右っぽさが浮き出てたみたいな。そこまでは全く覚えていない。

 

ただ「戦争を始めたことへの批判はない」とか、アメリカ海軍がレポートしたように「日本を戦争の被害者として描いている」とか言った批判は、「火垂るの墓」みたいな名作にも言えちゃうから、フェアじゃないのかなぁ、と思ったりする。第一、アメリカ軍の言い分の方が日本世論よりも偏っているだろうし。それに、戦争を始めることで、国内にこそ戦争の被害者が出てしまう!という発想は反戦の動機たり得る。当時の兵士の視点を借りて描くと、「戦争を始めたことへの批判」も盛り込むのはリアリティを失っちゃうしね。

 

で、気になったのは、「特攻はテロと同じだ」と意識高い系のジャーナリストが元特攻隊員の前で熱弁し、怒られて論破されるシーン。ここに引っかかった。

 

というのも、実際にモデルとなった人物がいるらしいけど、こんな極端なことを考えているジャーナリストって、そんなに多くないと思う。でも、こういう形で表現されたら、なんか沢山いるような気がしてしまう。

 

「仮想敵」が作られ、それを倒す(論破する)という構図だ。

ジャーナリストがちょっとウザイ感じで描かれているから、読み手はそこでスカッとしてしまう。

 

これがポピュリズム的だなぁ、と今になって思う。プーチンが偉くなった時にオリガルヒ(新興財閥)をとっちめて国民の支持を得たみたいな。最近だと小池都知事の「小池劇場」みたいな。「仮想敵」化したり、レッテルを貼って批判する、みたいなのは、ポピュリズムの手法にそっくりだと思う。なんか気持ち悪いなぁ。

 

思えば昔「ゴーマニズム」とかいう名前の漫画をパラ見した時も、在日朝鮮人の方々をデフォルメして、憎悪を煽るような描き方をしていたっけ。そう意味ではヘイトスピーチっぽさもある。

 

こうしてジャーナリストを批判することで、結果として百田の支持が上がる、ということもあったのかな。それは知らんけど。そうすると、「永遠の0」は歴史修正主義ゲートウェイドラッグになりえた、という話になる。

 

話を変えて、最近SNSが発達したからか、レッテル貼りが多いなぁと感じる。

大体はヘイトスピーチ。「売国奴!」とかいうアレなのだが。

 

それと比べるとイデオロギー的に「善」のはずの、フェミニズムなんかでも見かける。

動機が良くても、レッテル貼りはやめてほしものだ。基本ヘイトしか生まないから。